|
アニメージュ1984年10月号 ちゃぶ台を囲んでの座談会。
|
宮崎氏「日常の中に田中角栄に代表されるような小悪党ならいっぱいいるし、
サラ金に行ってガソリンに火をつけるといったことが日常的におこるようになっちゃったでしょう。
だからルパンのやることが夢物語でなくなってしまった。
それに、ワッいいものがあるぞっていうので、物をドンドン盗むというのは高度経済成長期の発想でね、
安定成長期というのは、もう物なんてどうでもいいやという風になる。
何を盗ませていいのか、段々わからなくなっちゃった。
「カリオストロ」を作ったころから、もうそういう時代でしたね。」
「何を(what)盗ませるか」にこだわる必要はない、
「どうやって(how to)盗みだすか」ということに『ルパン』のおもしろさがある、という管理人の持論があります。
(詳しくは本サイトコラム「『お宝』は種切れなのか」をご一読いただけますと幸いです。)
「何を盗ませるか」ということに拘泥し続けると、『ルパン』という作品は袋小路に入ってしまうのではないでしょうか。
面白いお宝が、そう簡単にほいほいと出てくるわけないですからね。
その点で言えば、「何を盗むか」というテーマで、おそらく最も成功し、高い評価を得たのが、『カリオストロの城』です。
もちろん、「盗んだもの」は「クラリスの心」です。
しかし、『カリオストロ』では、クラリスの心を盗む過程=ルパンとクラリスの交流、クラリスのために戦うルパンを描き出すことに主眼をおいているため、
「どうやって盗むか」を描くことに主眼をおいた作品でもあるわけです。
また、ルパンは、最初からクラリスの心を盗むつもりだったわけではありません。結果として盗んでしまったわけですから。
そこが、宮崎駿氏が描く、ルパンの魅力でもあり、ルパンのクラリスに対する「大人の男の悲哀」でもあるのでしょうか。
宮崎氏「それに、「ルパン」という」企画は懐が深いんです。
だから何かやりたいことをもっている人間とうまく合体すると、とんでもないことができるのじゃないかという気がしてましたからね。」
『ルパン三世』という作品の懐の深さは計り知れません。
「マモー」も「カリオストロ」も「ブロードウェイシリーズ」も受け入れてしまいます。
そう考えると、「『ルパン』はコレなの!」と決め付けてしまうことが、
『ルパン』作品の最大の持ち味の一つである「懐の深さ」を壊してしまうのではないでしょうか。
そして、それは、制作側だけでなく視聴者(ファン)にも言えるのではないか、と自戒もこめて思います。
「私の好きな『ルパン』はこんなんじゃない!」という意見も理解できますが、
その愛着心(先入観と言ってもよいでしょう)に固執することで、『ルパン』の
楽しみ方を損ねてはいないでしょうか?
(若手スタッフに嫌がられて)
押井氏「だから、今まで色んな人がやってきた手あかのついた「ルパン」だからこそ、
逆にこういうことができるんだと、ひとつひとつつ説明して納得してもらいました。」
「『ルパン三世』という作品はあまりにも有名です。
『ルパン』ファンでなくとも、「ルパン」と言えば「モーリス・ルブランの「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」」ではなくて、
「アニメの「ルパン三世」」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
後年、押井氏は「押井ルパン」構想とは、「実はルパンなんていなかったんだ」という話であったと語っています。
(『キネマ旬報増刊 THEルパン三世FIlLES~増補改訂版』1998年/キネマ旬報社)
押井氏の言う「手あかがついた「ルパン」」…
「ルパン」という存在の自明性が大きすぎるからこそ、その「ルパン」の存在の自明性を壊すことに新奇性があると、押井氏は考えたのでしょう。
押井氏の企画は、脱構築的な試みであったことが伺えます。
後述の「時代に斬り込むルパン」として、ふさわしい設定であったと思います。
しかし、1984年においては、先進的すぎたかもしれません。
また、エンターテイメント作品として実際に完成させるには、ハードルの高い内容であったとも思います。
大塚氏「そういう意味では不二子をはじめ、各キャラクターの性格設定がちゃんとあって、
そのアンサンブルがあの作品の魅力を出しているとも思う。
押井さんにも、各キャラクターの性格をかなり細かく書き出して、文章化してよく吟味し、
それを映画の中で取り違えないようにして描いて欲しいですよね。性格間違えちゃうと、表現までおかしくなっちゃうでしょう。
その上で、あまり過去のものにとらわれないで、自分の物を打ち出していくのが正当だし、そうでなきゃいかんと思いますね。」
この大塚氏のご意見は、さすが、ファーストシリーズからずっと『ルパン』に携わってこられた方のご意見であると思いました。
キャラクターが物語を動かすのが「ルパン三世」という作品です。
上述した「『ルパン』という作品の懐の深さ」もキャラクター設定をしっかりしていて初めて可能になることです。
キャラ設定をいいかげんに作ってしまうと、それはもはや『ルパン』ではなくなってしまうこともあるわけです。
言い換えれば、過去の『ルパン』作品の名作は、どんな世界観を描こうとも、キャラ設定がしっかりしていたからこそ、名作たり得たと言えます。
近年の長編作品が、あまり良い評価を得られない傾向にあるのは、キャラ設定がきちんと出来ていないからではないでしょうか。
宮崎氏「ところが、今は時代が全然違う。
警視庁といったら、すごい近代的なビルで、巨大なモニターテレビがダーっと並んでてパトカーはどこに配備されてるって全部わかってて、
犯罪人のリストのスイッチを押すと、 指紋から顔から全部スクリーンにダーッと映る。
そういう近代的な場所で銭形みたいな男がやっていけるはずが無いと思う(笑)。
この十何年の技術の発達を無視しちゃうと完全なアナクロセンスになっちゃうしね。」
銭形は「頑固な名警部」であって、「アナクロ」な男ではない、と管理人は思います。
時代にあった「頑固な名警部」ぶりを見せてくれればよいのではないでしょうか。
時代が進んで、コンピュータ社会になれば、銭形警部であれば「お宝返却大作戦」でみせたように、ハッキングを見破るくらいのことも造作もないはず。
そもそも、誰が「銭形はアナクロな男」と決めたのでしょうか。
セカンド「コンピュータかルパンか」では、コンピュータでは銭形の思考パターンが読めない、という設定がありました。
しかし、それは「アナクロである」という設定ではないはずです。
そもそも、「昭和一ケタ」という表現を使用し始めたのは宮崎氏だったと思います。
それは、「1978~1980年という時代においての、頑固者とっつぁん」を表現するには良かったのかもしれません。
ですが、1984年には1984年の、そして2008年には2008年にふさわしい「頑固者とっつぁん」の表現方法があるはずです。
押井氏「時代から疎外された者同士-ルパンと銭形の共感みたいなものがドラマを支えてはいけない。
ルパンというキャラクターをもう一回出すならば、もう一回時代に切り込ませなくっちゃと思ったからなんです。
時代を嘆くためにルパンを出す。それをやらないと、もう一回ぼくがルパンをやる意味が無いという気がしたんです。」
宮崎氏「非常に良くわかる。それが、押井さんの今回の役目だね。」
この座談会記事を読んでいると、「時代とルパン」という言葉が散見されます。
1984年という時代に、「ルパン」がどうやって時代と関わりを持つか、ということが押井氏や宮崎氏の問題意識だったのでしょうか。
『ルパン』という作品は、時代との関わりを無視できない作品であると、管理人は思います。
「ファーストシリーズ」「マモー」は時代に対して先進的でありました。
「セカンドシリーズ」は、時代を映しつつ、その時代を戯画化する側面もありました。
「カリオストロ」は、時代を超えた古典的手法をあえて取った作品でした。
宮崎氏「今の話にでた、時代という事を考えていくと,もう一つ難しい問題がでてくるね。つまり、この世界でルパンに何を盗ませるのか。
こういう世界で、何を盗んだら犯罪と考えるのかなっていうのは、難しいですね。
冒頭にもちょっと言ったけど、世の中全体が泥棒しているような時代でしょ、今は。」
AM それは例えばどういうことですか?
押井「あのね、日本人は海老を食べてると思うのだけど、
あの海老は東南アジア海域の海老を全部さらってきちゃったもんなんだそうですよ。
もし、そうしないと、日本人の口に入る海老は極端に減るって聞いてます。いま宮崎さんがいったことはそういうことを指していると思う。
国家単位で泥棒行為的なことがされていて、明確な意味での犯罪が成立しにくいというか。」
AM 昔のように、白黒がはっきりつけられないというか?
押井「だから、本当の意味での犯罪は現代ではたぶん成立しないと思うのね。
やろうとするともっと大きな機構としての犯罪に必ずぶつかるはずだから。」
「「権力を持った巨悪」は存在する」という、宮崎氏と押井氏のプリミティブな権力論です。(いわゆる「実体的権力論」ですね)
このような権力論・世界観を、両氏に振りかざされてしまうと、管理人としては残念に思います。
ダールの関係的権力論に関する文献や、フーコーの権力論「監獄の誕生」「性の歴史」あたりを読み直していただきたいです。
押井氏の「日本人と海老」の話は、『エビと日本人』(村井 吉敬/岩波新書/1988年)をご一読されると、理解が深まると思います。
宮崎氏「でもねぇ「ルパン」みたいなものは、やるんだったらエンターテイメントに徹する覚悟がないと、と思うな。」
押井「ただ、エンターテイメントっていうのはお客さんが見たがっているものを見せてあげるって事では必ずしもないと僕は思うんですよ。」
宮崎「本当は自分はこういう映画が観たかったんだっていう風に、観客が気がついてくれればいいということでしょ。」
押井「そういうことなんです。あなた方、こういうものを見たがっていると思うんだけどこういう風にしてみました。
でも、このほうが面白いでしょう「ああやっぱり面白かった」っていってくれればいいわけで」
宮崎氏の意見は、非常に同感です。『ルパン』はやはりエンターテイメントとしての需要が高い作品である思います。
「カリオストロ」はエンターテイメントであることを徹底した傑作でした。
一方で、押井氏の意見は、上述した「『ルパン』の懐の深さ」と
も関連して考えると興味深いです。
つまり、「『ルパン』はコレなの!」と思いこんでいるファンに対して、
「あなたが見たかったのはこんなものですよね」ということを気づかせることができるくらい質の高い作品が、近年は作られていないのかもしれません。
「ファーストコンタクト」はこのようにしてでつくられた傑作だと思います。
放映前には、ファーストシリーズや原作で描かれてきた設定をなかったことにするのか、といった否定的な意見も出ていたのではないでしょうか。
(伝聞調になるのは、当時、管理人は『ルパン』はおろかアニメに接する機会が無かったので、状況を知らないためです。)
押井氏「いまね、世界とか人類とか、そういうことを大真面目にいって噴出さないで済むのはアニメーションだけなのね。
実写、そういうこというと、みんな笑うに決まっている。」
AM それは確かにそうですね。まじめに「人類を救うには」なんて実写映画でやられたら、シラケちゃう。
押井「でしょう。
でも、アニメーションの場合は、それはもう作られた抽象化された世界なんだって、映画が始まった瞬間から客は思えてしまう。
だから、実写よりも、さっき言ったようなことを真正面から恥ずかしがらずにいえる。
それに、虚構とか現実というものを遙かに論理的に扱えるわけです。
だから僕としては、そういうことがやれると信じられるあいだは、アニメーションを作ると考えているわけです。」
押井氏のこの意見は、さすがのひとことです。
アニメは抽象性が高いと認識されるからこそ、その中で現実社会の問題点を濃度高く表現できます。
「アニメという手段を通じて、議論したい、問題提起したいものがある」という意識を持っている方だからこそ、
押井氏は『パトレイバー』や『攻殻機動隊』といった傑作を作り上げられたのでしょう。