「宮氏自身=ヤスオ」(※1)と考える根拠は以下のとおりです。
1、ヤスオと監督の属性の近似性(20歳後半~30歳前半の男性)
2、ヤスオと自身をオーバーラップさせる宮氏の数々の発言
3、作品中に観られるヤスオと宮氏のオーバーラップ
以下で、上記の点について一つずつ検討していきます。
【1、ヤスオと監督の属性の近似性(20歳後半~30歳前半の男性)】
これは、改めて検討する必要もないでしょう。
しかし、フリーターであるヤスオと、まがりなりにも『ルパン三世』監督である宮氏とを比較すると、「社会的地位においては宮氏の方がよい」というべきなのかもしれません。
また、宮氏は「ヤスオ」役を演じられた片桐仁氏のファンであったとのこと。
自分の好きなタレントに、自分のオリジナルキャラクターを演じて欲しいという発想が幼稚としかいえません。
管理人は、本作における片桐氏の演技は高く評価しています。
ヤスオの未熟さ、今どきっぽさは伝わってきましたし、声優経験がないわりには上手く演じられた方だと思います。
作品としても、充分に視聴に堪えられる出来だったと思っています。
しかし、プロ声優陣を差し置いて、声優として経験値のない片桐氏を配役したことに関しては、未だに疑問の余地があります。
これは、宮崎駿氏がプロ声優ではなくタレントを起用することを真似た試みなのでしょうか。
【2、ヤスオと自身をオーバーラップさせる宮氏の数々の発言】
「僕自身も数年前までは全然上手くいかなくて、ヤスオと同じように天井だけみて1日終わっちゃうようなこともあったんですよ。今がすごくいいわけではないですけど、ル
パンにこうやってチャンスをもらって、いろいろな人間関係の中でなんとかがんばって来れている。だから今はさえない暮らしをしていて一瞬先は闇かもしれないけど、そうじゃない可能性だって誰にでもあるんですね。>
> 今、日本は格差社会が広がっていて、そういう人間が早い段階で淘汰されて、用意されている未来が初めから決まってしまうように言われていますが、決してそうではないと思うんです。ど
うしようもない時期には親でも友達でもなく、ルパンみたいな何事にもとらわれない人間に、背中をポンと押されると、そいつはそいつの気持ち次第で新しい人生が開けていくもんなんです。と
にかくがんばれば上手くいくとというよりも、チャンスはどこにでもあって、それを捕まえたり捕まえなかったりするのは、その人次第だということを感じてもらえればと思います。」
(「『Green vs Red』トークイベント 完全レポート!」『ルパン三世officialマガジン vol.15』所収)
「ユキコのおばあちゃんは、人生の最期を迎えようとしています。そんな状態で心配しているのは、自分よりもこれからのある若者。だ
から悩みを抱えているみたいだけれど大丈夫、としっかりヤスオの背中を押すんです。僕の実体験にも似たようなことがありました。」
(『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学習研究社/2008年)
【3、作品中に観られるヤスオと宮氏のオーバーラップ】
①アニメ監督としての野心に燃える宮監督と、ルパンになりたいと切望するヤスオのオーバーラップ
宮氏=ヤスオ、アニメ監督業=ルパンとして生きること、と
して読み替えると、興味深い解釈ができます。
宮氏はアニメ監督業に対して野心を抱いていることは、以下の発言からも伺えます。
「まだ何も決まっていない段階で話を持ってきてもらったとき、弱気なことを言ったら「じゃあ宮さんでなくてもいいか」と思われちゃうので(笑)。」
「多分僕がこんなもん作っちゃったら次はないと思ってますので、僕にとってのルパンはこれが最後だと思います」
「だから僕としては、やるだけやってみようと思います。ここでほんと出し切ろうと思ってて、結婚したばっかなんですけど家にも帰らずにですね。徹夜徹夜でもう…最
悪離婚でもしょうがないかなと思ってがんばってますんで。」
(以上、すべて「『Green vs Red』トークイベント 完全レポート!」より『ルパン三世officialマガジン vol.15』所収)
②ナイトホークス社でのルパンの叫び=老害批判は、自分のやりたいようにやらせてくれない、旧来の「ルパン」関係者へのアンチテーゼとしてみると興味深い。
近年の「ルパン」制作現場においては、様々な「縛り」があるということが指摘されています。
次の浄園プロデューサーの発言にも、そのような制作現場の状況がうかがえます。
浄園プロデューサー「やはりテレビの場合、色々なポイントがありまして、超えてはいけないラインや逆に見せなくてはいけない部分があって、い
ろんな要望が監督や制作者サイドに寄せられるものなんです。そのひとつひとつを聞きながら、90分という尺で1本の作品を作るのは結構しんどい作業なんですよ。」
(「『Green vs Red』トークイベント 完全レポート!」より『ルパン三世officialマガジン vol.15』所収)
③一方で、自分を励ましてくれる年長者の存在を求めるという欲求も見えるのが、さらに興味深い。
この「励ましてくれる優しい年長者」は、特典DVDで対談し、励ましてくれたモンキー・パンチ氏や大塚康生氏への甘え(擦寄りと言ってもいいでしょう)なのでしょうか。
「次元や五ェ門などのレギュラー、特に年長者が優しい、という意見も聞きました。これは、僕がそういった先輩達に支えられてきた経験があるためで、そ
の思いが優しさとなって表現されているのかも知れません。」
「五ェ門なら、こんな傭兵はいつでも斬れた。でも暴走することしかできなかった用兵を哀れに思うと同時に、こんな人間にも未来があり、やがて日本をつくっていくのだと思い、斬れなかったんです。い
つの時代も若者はいろいろ言われますが、彼らのことを考えている人もいるということを、描きたかったんです。」
(『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学習研究社/2008年)
老害批判をしつつ、老人の後押しを欲しがる甘えた姿勢は、不
快でしかありません。
「一部の利権を持った旧弊な老人達が、未来ある若者の可能性を閉ざしている」という認識そのものが、青臭くプリミティブなものです。
学生紛争時代の価値観をひきずっているとしか思えません。
宮氏の世代(ちなみに管理人も同世代です)は、学生紛争とは縁遠い世代です。
いわゆる「団塊の世代」が学生紛争の時代です。宮氏は「団塊ジュニア」と言われる世代にあたります。
宮崎駿氏など、宮氏に影響を与えた世代が学生紛争の世代でした。
老害批判をしつつも、親世代の議論を鵜呑みにして、自分の世代の議論を構築しようとしていません。
宮氏が自分自身で物事を考えようとしないところは、以下の点からも伺えます。
・「GREEN vs RED」の
構成が押井ルパンを模倣しているに過ぎない点(詳しくは、弊サイト「GREEN
vs RED」感想を御覧下さい)
・佐藤俊樹や玄田裕史など研究者が数年前から議論している早期選抜による格差社会と若者の希望喪失(※2)について「そんな感じがする」と大上段に語っている点
後者に関しては、ア
ニメ監督にアカデミックな知識や思想は不要であるという意見もあるかもしれません。
しかし、宮氏が目指しているのであろう「難解でメッセージ性のあるアニメ作品」を造りたいのであれば、押井守氏の思考の前衛性、神山健治氏の現代思想への造形の深さなどを考えると、勉
強不足であると言わざるをえません。
④ユキコとの関係。ユキコを幸せにしたいけど、その存在と愛情を重くも感じている様子。
そのような描写が作品内には何度も見受けられます。
ユキコの実家へ挨拶に行くものの逃げ出すシーン。
レストランで指輪をプレゼントされたときのユキコの舞い上がりぶりを、どこか突き放したように演出するシーン。
銭形に変装したヤスオがユキコに「ルパンを愛せますか」と聞き、ユキコが「ルパンは犯罪者です」と答えることにより、二人の仲は(監督とヤスオにとっては)終わります。ヤ
スオ自身でユキコに別れを告げることはしませんでした。
「新型フィアットの銭形はヤスオです。「ルパンを愛せるか」というのは男の身勝手な問いかけで(笑)、「ルパンは犯罪者」と
断言したユキコにこの時点で決別しているんですね。あの微笑みも「わかった。元気でな」という意味に解釈できるでしょう。」
(『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学習研究社/2008年)
ナイトホークス社事件の報道中継時に、ユ
キコはヤスオ=緑ルパンであることを悟ります。
女性の実家に挨拶に行こうとまでする親密な間柄の恋人であれば、ヤスオ自身の言葉でユキコと別れるべきだったのではないでしょうか。
自分を愛してくれる恋人とこんな別れ方しかできないヤスオは、矮小な人物であるといえるでしょう。
それはヤスオの「等身大の若者像」とは合っているのかもしれません。
しかし、そんな男が果たしてルパンとしてふさわしいのでしょうか。
「裏切りがアクセサリー」な不二子を助けるルパン、命の恩人であるクラリスのために国家に喧嘩を売ったルパン、女好きではあるものの女性に恥をかかせることをしなかったルパン…そ
んなルパンとはかけ離れたヤスオの「男のズルさ」を見せられることは興ざめでしかありません。
こんな生臭い男女関係をみせられるのは、「ルパン」ではなく、月9ドラマか韓流ドラマあたりで充分です。
ここでもう一度、宮氏=ヤスオ、ア
ニメ監督業=ルパンとして生きること、としての読み替えを試みてみましょう。
宮氏はアニメ監督業という、ある種特殊な仕事(※3)(重労働・低収入な職種。しかし「当たるとでかい」仕事)に就いています。
しかし、愛する守るべき存在=家庭を持つということは、そのような仕事をしつづけることのリスクをも感じさせるでしょう。
また、家庭を持ち、「丸くおさまる」ことは自分のクリエイティビティを損なう恐れもあるかもしれません。いわゆる「攻めの姿勢がなくなる」というやつです。
(ここでは、あくまで一般的な傾向を述べているにすぎません。これには個人差があるでしょう。家庭がなくても保守的な人もいれば、家庭があっても攻めの姿勢を忘れない人もいます。)
ヤスオはユキコを捨てました。そしてルパンとして生きていくことを選んだわけです。
宮氏は家庭を持ったばかりです。しかし、監督は家族の存在を大切に思いながらも、その存在を少し重荷に感じているのかなと、管理人は思いました。
そして、そんな自分と決別し、家庭を守れる大黒柱としての覚悟を決めるために、ヤスオを作り出したのかもしれません。
ヤスオはもう一人の宮氏自身。心理学でいう代償行為をヤスオにさせたと考えるのは、穿ちすぎでしょうか。
宮氏が「ユキコと決別するヤスオ」を描いたことは、ストレス発散のために周囲の人間に暴力を振るう代わりにゲーセンのパンチマシーンをたたいている行為と同じ意味を持つのかもしれません。
以上の点から、ヤ
スオ=宮氏自身であるという解釈が充分に成立すると言えるでしょう。
管理人はヤスオが宮氏の自己投影であることを、批判するつもりはありません。
宮氏の作品なのですから、宮氏の好きなように作ればいい(※4)と思っています。
もちろん、「好きに作った作品」が視聴者に評価されるかどうかは、また別問題です。
宮氏が励ましたかったのは、「不遇の若者達」ではなく「宮繁之」だ
ったのではないでしょうか。
果たして、宮氏が自分自身に送ったエールは、彼が望む形で自分自身に届いたのでしょうか。