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COLUMN 2

  「GREEN vs RED」もう一つの解釈~「ヤスオ」とは誰だったのか

更新日:2008年5月11日


「GREEN vs RED」は、「ルパン三世」と いう冠がかかってはいますが、事実上の主人公は「ヤスオ」というフリーターの青年です。
ヤスオが「ルパン」になる成長物語として本作は描かれています。
ヤスオが「ルパン」になるのにふさわしい人物として、視聴者に受け入れられるように描かれていたかどうか、
そして、そもそも「ヤスオ」とはいったい誰を意味していたのかを本稿では考えたいと思います。

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引用部分は、全て原文ママで記載しております。
引用文は白で太字、管理人のコメントは緑字となっております。

作品としての「GREEV vs RED」の感想はこちらになります。

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  現代を生きる若者像としての「ヤスオ」


宮氏は、次のように「GREEN vs RED」の テーマを語っています。
「ここ最近、人間は早い段階から淘汰されている感じがするんです。経済的に、環境的に恵まれている人間でないと、自 分のやりたいことが出来なくなっているんじゃないかと…。ただ環境が厳しいからといって諦めてしまうと、どんどん人間がいい加減になっていくんですよね。環境のせいにして自分を甘やかすのは危険なことです。僕 は個人個人が持っている能力って、今も昔もそう変わらないと思うんですよ。フリーターや引きこもりの方たちだって、持っている能力は変わらないはずです。だからそういう人たちも、自分自身の本質的な力、生 命力というべきものを信じて、社会の中に飛び出して行けばいいと思うんです。そして成功と失敗を繰り返しながら闘っていけば、いずれ肩書きなどなくても自分はここまでやってきたのだ、こういう風に生きてきたのだ、 と胸を張って言えるようになるはずです。今の時代は、そうやって生きていく勇気が試されているのだと思います。
このような未熟だけど計り知れない可能性を持った若い力を、厳しくも見守る目があってもいいんじゃないか。そしてそんな視線を感じることができたら、開けていく若い人生もあるのではないかというのが、 この作品のテーマです。」
(「Message from Director 『GREEN vs RED』に懸ける思い」『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学 習研究社/2008年)


不遇な状況でくすぶっている若者でも、勇気さえあれば「ルパン」と いうスーパーヒーローにだってなれるというエールとして、本作を作ったとのことです。
そのような使い古されたテーマを語ることに意義があるかどうか、ここではその是非については問いません。
しかし、宮氏が考えた「視聴者が親近感を抱けるような主人公=ヤスオ」という設定には、大きく2つの問題点が挙げられます。

問題点
1、「なぜヤスオが「ルパン」となるにふさわしいのか」という問いに対する明確な答えがないために感情移入しづらい。
2、ヤスオと属性の近い人々(若いの男性)以外の視聴者がおいてけぼりになる可能性が高い。(視聴者層の幅広い「ルパン」としては致命的な欠点とも言える)

以下で、問題点について一つずつ検討していきます。

【1、「なぜヤスオがルパンとなるにふさわしいのか」という問いに対する明確な答えがないため感情移入しづらい。】
ヤスオがルパンにふさわしいとまで思えるキャラクターになっていないため、視聴者が感情移入しづらくなっています。
あえて言えば、「ルパンになる」ことを最後まで諦めなかったことが、ヤスオがルパンになれた理由として考えられるかもしれません。
万引きルパンや兄貴ルパンは、自身の限界に気づいてルパンになることを諦めました。
確かに、ヤスオは最後まで「ルパンになること」諦めませんでした…。
しかし、ヤスオを最終的に奮起させたのは、アフロルパンが仕込んだ偽の決闘状だったのです。
ヤスオは、偽の決闘状がこなければ、ルパンになることを諦めたのかも知れません。
アフロルパンは、ヤスオにルパンになることを諦めてほしくなかったからこそ、偽の決闘状を仕立てあげたのですから。
つまり、ヤスオは諦めなかったとはいえ、アフロによるお膳立てが必要だったのです。
もし、アフロが決闘状を用意しなかったら、ヤスオはそのまま諦めて、以前の生活に戻ったのかもしれません。
そう、アフロや兄貴ルパンのように…。
周囲のお膳立てなしでは闘うことができなかったヤスオが、ルパンにふさわしい人物とは到底思えません。

本作が本物ルパン=赤ルパンという構図であり、ヤ スオが最後は赤ルパンに敗北し、しかし「ルパンになろうとして、いいところまでいったんだから俺はやれるんだ」と自信を持ち、一人の青年として、自分で店を経営したり、何 がしかの会社で働くなどで等身大の幸せをつかみ、ユキコと幸せに暮らした、というエンドだったら、管理人は違和感を持たなかったでしょう。
いわば「たった一回の冒険が青年を男に変えた」というよくあるテーマで落とし込むことも出来たわけです。
そして、等身大な人生を歩んでいるヤスオとユキコの横を、新型フィアットに乗ったルパンと次元や五右ェ門、不二子が通り過ぎる、というオチだったら爽やかな仕上がりだったのかもしれません。
(そもそも、管理人としては、「他人の名前を騙る」ことが、すばらしい人生の幕開けだとは思えません。)
このような展開でも宮監督が意図した「不遇な若者へのエール」としての役割は充分に果たせたのではないでしょうか。
もしそうだったとしたら、ここまでの話題作にはならなかったかもしれませんが…。
ルパンがフリーターの兄ちゃんでもなれる、という本作の物語は、やはり「ルパン」像を破壊するものであったと思います。
(彼のテーマソングは「スーパーヒーロー」。まさにルパンとはスーパーヒーローなのですから。)

【2、ヤスオと属性の近い人々(若いの男性)以外の視聴者がおいてけぼりになる可能性が高い。】
それなりの社会的地位についている中高年層は、設定からしてヤスオに感情移入をしづらいのではないでしょうか。
そして、「ルパン」作品のファンは中高年層も一定以上存在することを考えると、問題がある設定だったとも思います。
視聴者の年齢と離れていても、視聴者の共感を得られる主人公は数多く存在します。
しかし、本作のヤスオは、そのような普遍的に共感される主人公像としては成立していなかったのではないでしょうか。
ヤスオの声優が本職の声優ではなく、タレントが「同世代の若者として」声をあてたために、ヤスオが「今どきの若者」としてキャラ付けされてしまっています。(ヤスオ役を演じた片桐仁氏は、監督から「 もっと力を抜いた今時の若者風のトーンで」演じるように指示されたそうです)
そもそも、先に記したように、「ヤスオがなぜルパンとなるにふさわしい人物か」というキャラクター造形に失敗しているという根本的な問題もあります。
宮氏は過去作(1stシリーズ、2ndシリーズ)の栄光にしがみついていてはいけない、という考えを何度か述べているので、旧来からのファン層はターゲットから切り捨てるということなのでしょうか。
しかし、本作における過去作へのオマージュも多く、矛盾しています。
それとも、ヤスオに親近感を抱けずに作品に距離感を持ってしまうであろう旧来のファンへのサービスとして、過去作へのオマージュを盛り込んだのでしょうか。

上記の点を考えると、「 視聴者である若者が親近感を抱けるような主人公=ヤスオ」という設定には問題があったことが分かります。
ヤスオと同世代に視聴者にとっては、ヤスオがルパンにふさわしく描かれていないため感情移入ができない。
ヤスオと異なる属性を持つ視聴者にとっては、主人公・ヤスオの設定からおいてけぼりをくらってしまい感情移入ができない。
この作品を観て、「励まされたぜ、俺も一旗揚げよう!」と思った若者(もしくは元・若者)はどれだけいるのでしょうか。
もし、「励まされた」と思った視聴者の方がいらしたら、管理人に教えていただきたいです。

では、ヤスオとは一体、誰だったのでしょうか。
そこで、管理人は「ヤスオは、宮氏自身なのではないか」と考えました。

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  宮繁之監督自身としての「ヤスオ」


「宮氏自身=ヤスオ」(※1)と考える根拠は以下のとおりです。

1、ヤスオと監督の属性の近似性(20歳後半~30歳前半の男性)
2、ヤスオと自身をオーバーラップさせる宮氏の数々の発言
3、作品中に観られるヤスオと宮氏のオーバーラップ

以下で、上記の点について一つずつ検討していきます。

【1、ヤスオと監督の属性の近似性(20歳後半~30歳前半の男性)】
これは、改めて検討する必要もないでしょう。
しかし、フリーターであるヤスオと、まがりなりにも『ルパン三世』監督である宮氏とを比較すると、「社会的地位においては宮氏の方がよい」というべきなのかもしれません。
また、宮氏は「ヤスオ」役を演じられた片桐仁氏のファンであったとのこと。
自分の好きなタレントに、自分のオリジナルキャラクターを演じて欲しいという発想が幼稚としかいえません。
管理人は、本作における片桐氏の演技は高く評価しています。
ヤスオの未熟さ、今どきっぽさは伝わってきましたし、声優経験がないわりには上手く演じられた方だと思います。
作品としても、充分に視聴に堪えられる出来だったと思っています。
しかし、プロ声優陣を差し置いて、声優として経験値のない片桐氏を配役したことに関しては、未だに疑問の余地があります。
これは、宮崎駿氏がプロ声優ではなくタレントを起用することを真似た試みなのでしょうか。

【2、ヤスオと自身をオーバーラップさせる宮氏の数々の発言】
「僕自身も数年前までは全然上手くいかなくて、ヤスオと同じように天井だけみて1日終わっちゃうようなこともあったんですよ。今がすごくいいわけではないですけど、ル パンにこうやってチャンスをもらって、いろいろな人間関係の中でなんとかがんばって来れている。だから今はさえない暮らしをしていて一瞬先は闇かもしれないけど、そうじゃない可能性だって誰にでもあるんですね。> > 今、日本は格差社会が広がっていて、そういう人間が早い段階で淘汰されて、用意されている未来が初めから決まってしまうように言われていますが、決してそうではないと思うんです。ど うしようもない時期には親でも友達でもなく、ルパンみたいな何事にもとらわれない人間に、背中をポンと押されると、そいつはそいつの気持ち次第で新しい人生が開けていくもんなんです。と にかくがんばれば上手くいくとというよりも、チャンスはどこにでもあって、それを捕まえたり捕まえなかったりするのは、その人次第だということを感じてもらえればと思います。」
(「『Green vs Red』トークイベント 完全レポート!」『ルパン三世officialマガジン vol.15』所収)

「ユキコのおばあちゃんは、人生の最期を迎えようとしています。そんな状態で心配しているのは、自分よりもこれからのある若者。だ から悩みを抱えているみたいだけれど大丈夫、としっかりヤスオの背中を押すんです。僕の実体験にも似たようなことがありました。」
(『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学習研究社/2008年)

【3、作品中に観られるヤスオと宮氏のオーバーラップ】
①アニメ監督としての野心に燃える宮監督と、ルパンになりたいと切望するヤスオのオーバーラップ

宮氏=ヤスオ、アニメ監督業=ルパンとして生きること、と して読み替えると、興味深い解釈ができます。
宮氏はアニメ監督業に対して野心を抱いていることは、以下の発言からも伺えます。

「まだ何も決まっていない段階で話を持ってきてもらったとき、弱気なことを言ったら「じゃあ宮さんでなくてもいいか」と思われちゃうので(笑)。」

「多分僕がこんなもん作っちゃったら次はないと思ってますので、僕にとってのルパンはこれが最後だと思います」

「だから僕としては、やるだけやってみようと思います。ここでほんと出し切ろうと思ってて、結婚したばっかなんですけど家にも帰らずにですね。徹夜徹夜でもう…最 悪離婚でもしょうがないかなと思ってがんばってますんで。」
(以上、すべて「『Green vs Red』トークイベント 完全レポート!」より『ルパン三世officialマガジン vol.15』所収)

②ナイトホークス社でのルパンの叫び=老害批判は、自分のやりたいようにやらせてくれない、旧来の「ルパン」関係者へのアンチテーゼとしてみると興味深い。
近年の「ルパン」制作現場においては、様々な「縛り」があるということが指摘されています。
次の浄園プロデューサーの発言にも、そのような制作現場の状況がうかがえます。

浄園プロデューサー「やはりテレビの場合、色々なポイントがありまして、超えてはいけないラインや逆に見せなくてはいけない部分があって、い ろんな要望が監督や制作者サイドに寄せられるものなんです。そのひとつひとつを聞きながら、90分という尺で1本の作品を作るのは結構しんどい作業なんですよ。」
(「『Green vs Red』トークイベント 完全レポート!」より『ルパン三世officialマガジン vol.15』所収)

③一方で、自分を励ましてくれる年長者の存在を求めるという欲求も見えるのが、さらに興味深い。
この「励ましてくれる優しい年長者」は、特典DVDで対談し、励ましてくれたモンキー・パンチ氏や大塚康生氏への甘え(擦寄りと言ってもいいでしょう)なのでしょうか。

「次元や五ェ門などのレギュラー、特に年長者が優しい、という意見も聞きました。これは、僕がそういった先輩達に支えられてきた経験があるためで、そ の思いが優しさとなって表現されているのかも知れません。」
「五ェ門なら、こんな傭兵はいつでも斬れた。でも暴走することしかできなかった用兵を哀れに思うと同時に、こんな人間にも未来があり、やがて日本をつくっていくのだと思い、斬れなかったんです。い つの時代も若者はいろいろ言われますが、彼らのことを考えている人もいるということを、描きたかったんです。」
(『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学習研究社/2008年)

老害批判をしつつ、老人の後押しを欲しがる甘えた姿勢は、不 快でしかありません。
「一部の利権を持った旧弊な老人達が、未来ある若者の可能性を閉ざしている」という認識そのものが、青臭くプリミティブなものです。
学生紛争時代の価値観をひきずっているとしか思えません。
宮氏の世代(ちなみに管理人も同世代です)は、学生紛争とは縁遠い世代です。
いわゆる「団塊の世代」が学生紛争の時代です。宮氏は「団塊ジュニア」と言われる世代にあたります。
宮崎駿氏など、宮氏に影響を与えた世代が学生紛争の世代でした。
老害批判をしつつも、親世代の議論を鵜呑みにして、自分の世代の議論を構築しようとしていません。
宮氏が自分自身で物事を考えようとしないところは、以下の点からも伺えます。

・「GREEN vs RED」の 構成が押井ルパンを模倣しているに過ぎない点(詳しくは、弊サイト「GREEN vs RED」感想を御覧下さい)
・佐藤俊樹や玄田裕史など研究者が数年前から議論している早期選抜による格差社会と若者の希望喪失(※2)について「そんな感じがする」と大上段に語っている点

後者に関しては、ア ニメ監督にアカデミックな知識や思想は不要であるという意見もあるかもしれません。
しかし、宮氏が目指しているのであろう「難解でメッセージ性のあるアニメ作品」を造りたいのであれば、押井守氏の思考の前衛性、神山健治氏の現代思想への造形の深さなどを考えると、勉 強不足であると言わざるをえません。

④ユキコとの関係。ユキコを幸せにしたいけど、その存在と愛情を重くも感じている様子。
そのような描写が作品内には何度も見受けられます。
ユキコの実家へ挨拶に行くものの逃げ出すシーン。
レストランで指輪をプレゼントされたときのユキコの舞い上がりぶりを、どこか突き放したように演出するシーン。
銭形に変装したヤスオがユキコに「ルパンを愛せますか」と聞き、ユキコが「ルパンは犯罪者です」と答えることにより、二人の仲は(監督とヤスオにとっては)終わります。ヤ スオ自身でユキコに別れを告げることはしませんでした。

「新型フィアットの銭形はヤスオです。「ルパンを愛せるか」というのは男の身勝手な問いかけで(笑)、「ルパンは犯罪者」と 断言したユキコにこの時点で決別しているんですね。あの微笑みも「わかった。元気でな」という意味に解釈できるでしょう。」
(『ルパン三世「GREEN vs RED」オフィシャルガイドブック』所収・学習研究社/2008年)

ナイトホークス社事件の報道中継時に、ユ キコはヤスオ=緑ルパンであることを悟ります。
女性の実家に挨拶に行こうとまでする親密な間柄の恋人であれば、ヤスオ自身の言葉でユキコと別れるべきだったのではないでしょうか。
自分を愛してくれる恋人とこんな別れ方しかできないヤスオは、矮小な人物であるといえるでしょう。
それはヤスオの「等身大の若者像」とは合っているのかもしれません。
しかし、そんな男が果たしてルパンとしてふさわしいのでしょうか。
「裏切りがアクセサリー」な不二子を助けるルパン、命の恩人であるクラリスのために国家に喧嘩を売ったルパン、女好きではあるものの女性に恥をかかせることをしなかったルパン…そ んなルパンとはかけ離れたヤスオの「男のズルさ」を見せられることは興ざめでしかありません。
こんな生臭い男女関係をみせられるのは、「ルパン」ではなく、月9ドラマか韓流ドラマあたりで充分です。

ここでもう一度、宮氏=ヤスオ、ア ニメ監督業=ルパンとして生きること、としての読み替えを試みてみましょう。
宮氏はアニメ監督業という、ある種特殊な仕事(※3)(重労働・低収入な職種。しかし「当たるとでかい」仕事)に就いています。
しかし、愛する守るべき存在=家庭を持つということは、そのような仕事をしつづけることのリスクをも感じさせるでしょう。
また、家庭を持ち、「丸くおさまる」ことは自分のクリエイティビティを損なう恐れもあるかもしれません。いわゆる「攻めの姿勢がなくなる」というやつです。
(ここでは、あくまで一般的な傾向を述べているにすぎません。これには個人差があるでしょう。家庭がなくても保守的な人もいれば、家庭があっても攻めの姿勢を忘れない人もいます。)
ヤスオはユキコを捨てました。そしてルパンとして生きていくことを選んだわけです。
宮氏は家庭を持ったばかりです。しかし、監督は家族の存在を大切に思いながらも、その存在を少し重荷に感じているのかなと、管理人は思いました。
そして、そんな自分と決別し、家庭を守れる大黒柱としての覚悟を決めるために、ヤスオを作り出したのかもしれません。
ヤスオはもう一人の宮氏自身。心理学でいう代償行為をヤスオにさせたと考えるのは、穿ちすぎでしょうか。
宮氏が「ユキコと決別するヤスオ」を描いたことは、ストレス発散のために周囲の人間に暴力を振るう代わりにゲーセンのパンチマシーンをたたいている行為と同じ意味を持つのかもしれません。

以上の点から、ヤ スオ=宮氏自身であるという解釈が充分に成立すると言えるでしょう。
管理人はヤスオが宮氏の自己投影であることを、批判するつもりはありません。
宮氏の作品なのですから、宮氏の好きなように作ればいい(※4)と思っています。
もちろん、「好きに作った作品」が視聴者に評価されるかどうかは、また別問題です。

宮氏が励ましたかったのは、「不遇の若者達」ではなく「宮繁之」だ ったのではないでしょうか。
果たして、宮氏が自分自身に送ったエールは、彼が望む形で自分自身に届いたのでしょうか。

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※1作品内に登場する、作者の自己投影ともいえるキャラクターを「メアリー・スー」といいます。
「メアリー・スーは、簡素にいえば、二次創作の作者が描く、作者の分身であるオリジナルキャラクターを指す。作者の「目立ちたい、ちやほやされたい」という願望が露骨に表れた、原作のストーリー・世界観やキャラクターの性格設定を根本的に破綻させてしまうキャラクターのことである。」(wikipedeiaより引用)
「Green vs Red」に登場するヤスオは公式作品の登場人物であり、二次創作の登場人物ではないのでメアリー・スーではない、という反論もあるでしょう。
しかし、「新スタートレック」のキャラクターであるウェスリー・クラッシャーが、有名なメアリー・スーであるということ鑑みれば、ヤスオも充分にメアリー・スーであるといえるでしょう。しかも、ウェスリーは、「新スタートレック」の作者であるジーン・ロッデンベリーが作り出したキャラクターであるのに対して、ヤスオは宮繁之氏という『ルパン』作品への貢献もまださほどなしていない新米監督が作り出したキャラクターです。宮氏の『ルパン』第一作「天使の策略」の評価の低さを考えると、やすやすと「ルパン」にメアリー・スーを持ち込む権利があったとは、ファン心理としては思えません。
ヤスオは、40年の長きに渡って愛されてきたスーパーヒーロー・ルパンになってしまうようなオリジナルキャラクターなのですから、ある意味最強のメアリー・スーであると言えます。
より詳しく「メアリー・スー」について知りたい方は、下記のサイトを御覧下さい。
MARY SUES FREQUENTLY ASKED QUESTIONS(メアリー・スーとは何か。その定義と由来について解説しています)
Mary Sue(wikipediaによるメアリー・スーの定義)
※2格差社会論の嚆矢ともいえる佐藤俊樹『不平等社会日本――さよなら総中流』(中央公論新社[中公新書]2000年)において、佐藤は、特に早期選抜による格差が中高年以降の格差をも規定してしまうというテーゼを、SSM調査の分析結果を元に、ブルデューの文化資本論を援用して議論を展開しています。
経済学者・玄田有史は)『ニート――フリーターでもなく失業者でもなく』(共著、幻冬舎, 2004年) によって、2004年、「ニート」という概念をイギリスから日本に導入。
一方、教育社会学者である本田由紀は、『「ニート」って言うな!』(共著、光文社[光文社新書],2006年)において、玄田の「ニート」定義の曖昧さを批判しています。
※3アニメ業界の収入の低さと不安定さはよく知られています。以下の記事も参考になります。
アニメーターと演出家の生活を豊かにするために/JAnicA(ジャニカ)世話人 芦田豊雄インタビュー(WEBアニメスタイル)
「時給150円」アニメ制作はつらいよ(YOMIURI ONLINE)
※4「1stTVシリーズ後期」や「カリオストロの城」で『ルパン三世』を支えた宮崎駿氏でさえ、「2nd最終話・さらば愛しきルパン」で、宮崎駿氏のオリジナルキャラクター「ナウシカ」を彷彿とさせる「小山田マキ」、「ラピュタ」の巨人兵をイメージさせる「ラムダ」を登場させたことへの批判の声は存在します。
そう考えると、『ルパン三世』という作品に監督自身のオリジナル要素を色濃くだすことのリスクは充分に高いことが分かります。
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